2014年御翼7月号その1

「罪とは、もう愛さないこと」―― 森下辰衛氏

 

 以下は、三浦綾子読書会の機関誌向けに書かせて頂いた森下辰衛著『「氷点」解凍』の書評である。
 「綾子さんはどうしてこんなに男運がいいのでしょう! それに比べてどうして私は男運が悪いんでしょう? 先生、教えて」と、ある女子学生が書いてきた。著者・森下辰衛氏が福岡女学院大学で教えていたときのことである。「あなたの男運のことなど私に聞かないで」と思ったそうだが、三浦文学を通して学生たちがキリスト教に触れ、変わるのを見て、一般の人たちにも信仰の立場から三浦文学を紹介したい、と森下氏は考える。そして、三浦文学の研究に専念し、読書会を立ち上げるために大学教授を辞め、当てもなく旭川に家族で移住した。四人のお嬢さんの一人は、「パパ、うちはホームレスになるの?」ときいたという。
 綾子さんは作家となる前、「健康も、恋人も、師も」失った。しかし、生活を賭けて三浦文学を研究した森下氏は、「人生で一番大事な出会いは、全てを失ったときに実現する」と信仰を以て言う。キリストは十字架上で「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)と叫ばれた。森下氏の場合、髪が薄くなったときのショックを、「我が髪、我が髪、どうして私をお見捨てになったのですか」と表現する。しかし、この叫びが自分の弱さを認め、謙遜に神を信頼する表われなのだと言う。叫びの中で綾子さんは光世さんと出会い、森下氏の場合、読書会が全国や海外に広がり、三浦綾子記念文学館特別研究員として講演活動を続けている。
 「人間が人間らしく生きることの難しさと、素晴らしさ」が三浦綾子のテーマであり、難しくさせるものは、神の前における人の罪である。この原罪から起こる淋しさによって、心のいのちが凍えることを「氷点」と呼ぶ。人は、神から離れ、生きる目的や愛を失い、罪をゆるされることがわからないとき、存在価値を見失って凍える、と森下氏は解説する。『氷点』の主人公陽子は、両親・夏枝と啓造の「罪」に翻弄され、心のいのちが凍え、自らの死を選ぶ。しかし、綾子さんは、「夏枝や啓造の反対側に、神を信ずる生き方を暗示させたつもりだ」と記していた。「このようにネガとして描くのが『氷点』の書き方の深層構造であった」と森下氏は言う。正しい生き方の「ネガ」として読むと、『氷点』は「解凍」できるのだ。
 「『チーン』の解凍です」と題を紹介する森下氏は、ユーモア溢れる信仰の人である。それ故、読み終えた後は、信仰に生きる勇気と、陽だまりのような温かいキリストの愛が残る。

 ドストエフスキーは、「地獄とは、もう愛せないということだ」と書いたが、森下先生は、「罪とは愛さないこと」であるという。人間は愛する使命を持つ者として造られ、自分自身を愛し、世界を愛し、愛すべく人生のなかで与えられた誰かを愛し、神を愛することで幸せになるようにできているからである。そして神はこの世界にもそれぞれの人生にも多くの愛すべき存在を与えて、愛せよ、愛せよと招いておられる。だから逆に愛さないことを選ぶことは、本来の人間のあり方からすれば、全くの的外れなのである。罪とは新約聖書のギリシャ語では「的外れ」という意味の語だが、神の心と全く逆の方向を向いて、愛さないという道を選ぶことは、自ら地獄を選ぶこと以外の何ものでもない。
 『氷点』の夏枝が自分勝手という自己中心から子どもと夫を愛する使命を捨てたのだとしたら、啓造はゆるさないという自己中心によって妻を愛するという使命を捨てたと言える。妻が罪を犯したときには、それを悲しみつつもゆるし共にその十字架を背負うことが夫の愛であるとしたら、ゆるさず裁き自らの手で罰しようとした啓造は、愛することを自らやめたのである。
 しかし、『続・氷点』では、陽子はキリストによる罪の赦しを知る。三浦綾子さんも森下辰衛先生も、自分の不完全さを認め、謙遜にいっさいを主にお委ねしたとき、人の魂を救いに導く人生へと展開していった。これが聖霊に満たされ、愛なる神の素晴らしさを体験する人生である。

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